屋台のわだち

    聞き書き
   那珂湊天満宮の祭禮異聞 より抜粋
                    菊池恒雄(那波屋店主)
                                 平成5年3月25日発行


伝説に曰く


「和田町に金兵衛と言ふ爺さんがおった。
或る夜海岸を歩いて居ると岩の上に光るものがあったので近づいて見ると金仏の像であった。
 それは観世音の姿であったが、梅鉢の紋があったので天満宮として祀れるものである」と、今 も和田町金兵衛氏宅の下に御腰掛石なるものがある。
 金像のありし処であると言ふので、八月三日の祭礼には神輿がここに安置されることとなって 居る。
 以前は同所は砂の埋没にまかせ、七月二十五日に年番町で掘り出すのを例としたが、明治 四十二年そこに石垣を積み棚を廻らし、記念碑を建てて居る。
 祭礼には六町目より年々獅子を出すことになっている、其の原因は七町目に人好き夫婦が誰 の作とも知らぬ獅子像を秘蔵され、六町目の入屋源兵衛が所望し、天満宮に供奉したのが始 めと言われている。



橿原神宮について


関東3大祭りといわれていた八朔祭りを見てきましたが、
大正初期の八朔祭り はすべてが屋台でした。
それ以前はほとんどが山車だったそうです。


山車の飾り物は、源義経、新田義貞、加藤清正などの武人の人形が多かったそうです。
山車が屋台に改造されても、「ダシ」と呼んだり、「山車」と多く書かれています。
これは、明治期の言葉が生き続けています。
 橿原神宮の古称「橿原明神」が、話し言葉においては、「橿原神宮」あるいは、「明神さん」と現 に呼ばれています。
「橿原」をカシワバラと誤読する人が少なくありません。



八朔祭り改革委員会について


大正8年は水門町年番でした。
そのころは、
本祭り執行が当たり前で、大震災とか大喪のときだけが居祭りです。
当時は、居祭りでは年番を次の町内に引き渡すことができませんので、翌年も年番を努める規約になっていたため、よほどのことがない限り、本祭を執行しました。
この年番留置の制度は、戦争中に廃止となりました。
昭和32年には、年番一町目祭典事務所に、お神輿が乱入するという事件がありました。

注   
 1: 八朔祭りとは、天満宮例祭の通称。 
 2: 居祭りとは、例祭のみを執行する。 従ってご神幸祭は行われない。
 3: 報道とは、各町に対して報知、送迎、誘導をする。 年番の一業務。
 4: 町印とは、竹竿の先にほほずき提灯を3個から5個付けた町名旗のことで、
    本来は、ご神幸行列の供奉に都合で風流物を出さない町内が
    その代わりに出したもの。

 
昭和52年の秋、「各町若連親睦会」が設立されました。
        

 初代 

 伊藤政三

 釈迦町 

 2代

 小田部耕

 釈迦町

 3代

 間宮昇

 牛久保

 4代

 根本保夫

 牛久保

 5代

 加藤正雄

 泉町

 昭和58年〜60年 

 6代

 菊本忠三郎 

 小川町

 昭和62年〜63

 7代

 大内勝二 

 殿山町

 平成元年〜2

 8代

 東城繁男 

 辰ノ口

 平成 

 9代

 久米皓二郎 

 田中町

 平成 




獅子六町目


 1:年番とは、氏子各町が輪番で当たる祭礼の主管者。
   現在は、氏子22町内のうち16町内が奉仕する。

 2:本祭りとは、82日に例祭を執行した後、
   3
日、4日 両日に ご神幸祭を執行するもの。
 
 3:ご神幸祭とは、天満宮のお神輿が、お腰掛け戸称するお旅所へ 渡御されること。
  天満宮からおこ腰掛までを出御といい、
  お腰掛けから天満宮に至るまでを還御という。
 
 4:町渡しとは、各町内の風流物が、出御行列と還御行列の合間をみて、
   他町内の祭典事務所と若連事務所を思い思いに歴訪すること。
 
 5:祭事補とは、五町目に限っての若衆頭の呼称。
 
 6:風流物とは、各町内が出す屋台のほか、六町目獅子と元町みろくの汎称。
   屋台だけを、さしてもいう。



大正四年 五町目年番記


還御行列が和田町の詰め所を出立した途端、和田町の若衆にお神輿をさらわれました。
そのため、還御が執行できず、年番は、行列の各町に一時解散を通達し、引き上げました。

程経て、各町相談の上、祭礼続行を促す使者を年番五町目祭典事務所に寄越し,祭典再開を 迫りましたが、留守番の、内田初太郎、田村東之介、両氏は「協議は相当に長引きそうで、お祭 りは、更に延期になるかも知れません。
ついては、各町様に対して、十日も二十日もお覚悟されるようお言付け願います」と拒否しまし た。
このときの冗談口がもとで、「十日も二十日もおっしゃいよ」という囃子詩が生まれたと
か、定かではありません。


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一町目年番記


昭和32年旧8月4日午前9時から10時のこと、お神輿を担いだ百人余りの和田町若衆が、 一町目本通りをすざましい勢いで蛇行してもみ続け、一瞬のうちに年番事務所に乱入しました。
その後、役員協議の上、年番続行不可能の旨、文書で通告し、年番事務所を閉鎖しました。
お祭りのあと、提灯、幕、表札のほか屋台までも一切合切、大利工場広場で焼却しました。
なお、年番事務所は<一町目総代大利本店>宮崎慶一郎(県公安委員)宅でした。

泉町の屋台の引き方


 8月3日朝方、「四町目」で引き出し、祭典事務所前で「三番叟」を踊り、再び「四町目」で町内を 一回りして天満宮へ向かい、町内を出たところで「おっしゃい」を指示し、その後は一切を笛吹き に任せます。

参拝後、町渡しとなり、年番直行が建前ですが、時代の変還で年番町優先とは参りません。

翌4日還御の際は和田町掲示板を出発して七町目本通を通過するまでは、「鎌倉」を用いり、 この後は笛吹きに一任します。

夜、町渡しを済ませて戻り、町内の入り口から「本町二丁目」を若衆全員で唄いながら、ゆっくり 進行させます。

最後は「千秋楽」を芸者が踊って終わり、若衆頭が祭典事務所にお礼を述べます。

那珂湊の屋台の囃子は、那珂湊独自のもので、曲目が多く、曲調も際だって優れ、芸者の三味 線が入るのが特長です。

「とっぴき」は「地」と「地」の間に「キッカエシ」「キザミ」が入るのが大きな特長です。

「おっしゃい」はよそから来た芸者が、若衆のからかい言葉が理解できず「もう一度おっしゃって」 と聞き返した「おっしゃって」と言う言葉が都会的に聞こえ、若衆にもてはやされて、これが題名 になったと言う説があります。

また、大体即興ですので、その場で消えてしまいますが、戦前から愛用されているのもあります。

「裸で裸足でおっしゃいよ」「朝から晩までおっしゃいよ」「おっしゃいバケツが十三銭、安いと思っ たら底抜けだ」などがあります。

最近、下品でいやしいものなど、のべつ幕なしにはやしていますが聴衆には迷惑かも知れません。


囃子について

 山車の囃子は、昔は十二,十三曲あったが、現在は、「四町目」「切り四町目」 「かっこ」「鎌倉」「早渡り」「おっしゃい」「本町二丁目」の七曲です。
 このほかに「とっぴき」という在方農家の男囃子があります。

 「四町目」 

 8月3日朝引き出し、町内を一回りするとき用います 

 「切り四町目」 

 現在はあまり使われません

 「かっこ」

 詰め所で行列出発待機、行進中都合で停止するとき用います

 「早渡り」

 時間に追われたときや、裏通りなど先を急ぐ場合用います 

 「鎌倉」

 「かっこ」の場合と同じく使います

 「おっしゃい」

 即興の囃子詩や掛け声が入って、芸者、若衆も威勢がつくので
 ずば抜けて愛用されています

 「本町二丁目」

 屋台が町内へ戻ってから、引き納めるまで用います
 以前はお神輿がお宮入りしたあと、行列が明神町掲示場を抜けるとき
 も使いました

 「とっぴき」

 大急ぎの時や、坂を一気に登る時使います
 男囃子連のもので、三味線は入りません


「おっしゃい」について

 江戸時代の山車は仕事師に引かせたとか、木遣節を唄ったものだと聞いたことがあります。 それはゆっくりしたもので、屋台になってもゆっくりした引き方だったと思われます。
  それゆえ「四町目」「かっこ」「鎌倉」が格好の囃子でしたが、引き方が荒々しくなり、威勢のよ い囃子が待ち望まれました。
 
 大正中期、太田の芸妓置屋「オカメ」のもたらした囃子は、若衆や見物客まで高揚させる上、 即興の掛け声まで入るのでもってこいでした。屋台と屋台の擦れ違いには若衆、芸者も張り合 い囃子の競演になり、それは「おっしゃい」の名で囃子の王座にのし上がったわけです。若衆に は年齢制限はなく、だれでも梶棒に入れますが、昔は、厄年までと言われていたそうです。
厄年が二十四歳か四十二歳なのかは定かではありません。



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