那珂湊天満宮御祭禮


天満宮祭事資料    八朔祭   屋台のわだち


平成5年に発行された「屋台のわだち」菊池恒雄(那波屋商店主)さん著や

平成25年田中町年番記念誌 等をもとに

那珂湊天満宮御祭禮をご紹介します。



那珂湊天満宮御祭禮とは    日  程       特  徴       御 神 輿  
獅子と弥勒 風流物 囃  子 いわれ



 
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①<那珂湊天満宮御祭禮>とは


那珂湊天満宮の祭りとして古くから行われ、以前は「御祭禮」と言っていましたが、明治に入ってから「八朔祭」とも呼ばれるようになりました。

現在の形になって300年を超える個性的な祭りで、関東三大祭としてにぎわっていました。

数々の祭事は両宮元町である釈迦町と元町が立ち会い、年番町が引き継いで進めます。

氏子は那珂湊の22(平成27年現在は18)の町内で、その年の「年番」に当たった町内がすべてを取り仕切り、獅子、みろく、風流物の屋台が出ます。

以前は背の高い山車の上に各町競って人形等飾り物をした形態が主流でした。

獅子とみろくは江戸時代のままの姿ですが、他の風流物(山車)は、明治末期に電線が張られてからは、現在のような屋台ばかりになりました。

屋台には芸者衆が乗り、

「門付け」(町の有士などから依頼されて芸を披露すること)や

「町渡し」(屋台,獅子,みろくの風流物が御神幸供奉以外の時間に、思い思いに他町内の祭典事務所と若衆事務所を訪問すること)をします。

昼間は優雅に舞い、夜は激しく華やかに囃しながら御神輿のお供をします。

お囃子に三味線が入る点や、屋台が御神輿よりも目立ってしまう点などは、かなり珍しいかもしれません。

「門付け」や「町渡し」には端唄のほか「磯節」「網のし」などの民謡で舞を披露します。

また御神輿を海中で揉む「お浜入り」も見どころの一つです。

天満宮の祭礼(天満宮祭礼保存会)として昭和551126日に市指定無形民俗文化財にもなっています。

氏子(順不同)

殿山町・牛久保町・和田町・七町目・六町目・泉町・五町目・四町目・明神町・弐町目・

壱町目・龍之口町・釈迦町・元町・小川町・田中町・北水主町・南水主町

  
                

  

 

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②日程

日程は、本来は旧暦の八月朔日から四日間でしたが、

現在は新暦8月第一金曜日を例祭とし4日間(木・金・土・日)にしています。

1日目のお宮参りは

年番町によりお宮参りの行列をします。

年番町お宮参りの目的に関しては、各町内に対しての挨拶回りという説がありますが、定かではありません。

また、年番役員がご神幸道筋を点検したのが、その原形だという説もあります。

行列には手古舞・稚児も加わります。

2日目の例祭は

御神輿への御神遷しなどの神事・儀式、年番引継ぎ、供奉順抽選などを天満宮にて行います。

供奉順は明神町と和田町に掲示されます。

明神町の掲示板には「定」、和田町のには「覚」と書いてあります。

3日目の神幸祭は

各町内の風流物(屋台・獅子・みろく)は、朝9時頃から夕方までは「町渡し」と言って、

あでやかに舞いながら、各町の祭典事務所、若連事務所への挨拶廻りをします。

年番町は天満宮で神事を行い、御神輿の御出発(18)に備えます。

詰所になる明神町には、露払いの獅子六町目、纏和田町、元町みろく、

抽選順に各町内の町印、風流物が集合し花火を合図に17時30分出発します。

 御神輿行列のお供の任務を果たした風流物行列は、自由巡行になり本町通りから自町内へ戻ります。

4日目は神幸祭2日目・還幸祭となり

御神輿は早朝5時にお仮殿での神事の後、6時に海中でもみ合う「お浜入り」し、

町々を一巡後、午前10時にはお腰掛け石(お旅所ともいう)へ安置し、その後お仮殿へ遷し、

再び神聖な姿で18時からの還幸行列で天満宮へ戻ります。

各町の風流物は、神幸祭同様町渡しをしながら、16時に和田町中通り詰所に集合し、

花火を合図に18時に出発します。

風流物は、本通りから自町内へ戻って、千秋楽となります。


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③特徴

那珂湊天満宮御祭禮の大きな特徴は、伝統と格式とを重んじて正確に伝承する点、

かつての豪商達や網元達の旦那衆、若衆達が心意気や粋の見せどころ張りどころと、

これでもかと財力の散財をする派手さ・豪快さを競いました。

これも水戸藩の台所と言われた那珂湊ならではのことだと思います。

数々の郷土史資料にも、

○「那珂湊天満宮の祭礼の特徴は、浜下りの御神幸の格式もさることながら、この驚くべき華美と出費とにある。」とか、

○「明治時代末期になっても、那珂湊八朔祭りの華美とそれに伴う莫大な出費は、変わることはなかった。」とか、

○「湊の衰退の現状を考慮して、華美を廃せとの運動が起こったが、結局、変わらなかった。」とか、

○「敗戦の翌年・昭和21年は、平和が戻った喜びで、風流物の出場も特に多く、記録的な大祭となった。」とか、

○「昭和22年の大火からまだ2年なのに、昭和24年には早くも復興祭と称して本祭りを挙行した。」

などと書かれているように、本祭りの実行には莫大な費用がかかります。

年番町は天神様の梅鉢の御紋入りの羽織・袴を新調し、女の子達は手古舞姿一式を新調します。

各町は、風流物の新調や維持・手直しや、役員は梅鉢の御紋入りの羽織、

若い衆は町名入りの半纏等をそろえます。

他町の風流物に自町内の祭典事務所、若連事務所で「町渡し」のために出す御祝儀のほか、

飲み食いなどにも大盤振る舞いをしました。

湊の人達は本祭り挙行をするからには無理をしてでも見栄を張ってドーンと寄付金を出していました。

花火大会やフェスティバルは、あくまで年中行事(イベント)であり、

戦後は、イベントと祭礼とが混同されてしまう傾向にあり、どちらも「お祭り」と呼ばれています。

那珂湊天満宮御祭禮は、全てが有形・無形の文化財で、300年も挙行されている伝統的なお祭りであり、

神事・儀式を主軸にして、郷土愛・連帯感などを共有しあっています。

 

 


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⑤御神輿

華やかな風流物の町渡しに先立って、御神輿が厳粛に、時に荒々しく町内を巡ります。

3日目の天満宮では「神幸祭」のあと、年番町に引き継がれ、厳かな神幸行列となって御仮殿まで巡行します。 

ここで神霊は一夜を明かし、翌朝、和田町の奉仕によって御神輿の綱掛けの儀、引き継ぎが行われ、いよいよお浜入りになります。

和田町を中心とした人々によって海中に御神輿が沈められ、その中を荒々しく揉み合います。 

海から上がった御神輿は、奉仕者たちとともに水がかけられ各町内を巡行します。

その後和田町の御旅所まで行き、年番町へ御神輿が引き継がれ、六町目の獅子と合流し、御仮殿まで厳粛に進みます。 

夕刻には、「還幸祭」として御仮殿を出て天満宮へ向かいます。

そして天満宮本殿に神霊が還られます。

その後各町内の町印の行列は、明神町を通過して終了となります。

風流物は3町目常陽銀行湊支店前で折り返し、自由行動になります。


 


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④獅子と弥勒


<獅子(ささら)>

御祭禮には六町目より露払いとして獅子を出すことになっています。

そのいわれは諸説あり、一つは七町目の年寄り夫婦が誰の作とも知らぬ獅子頭を秘蔵していましたが、

六町目の入屋源兵衛が所望し、天満宮に供奉したのが始まりと言われています。

また病に倒れた旅人を手厚く看病し、全快したお礼に所持していた諸国の神社の「お札」で獅子頭を作ったとも言われています。

六町目の獅子は三匹の獅子で<ささら>とも言われ底なし屋台で、あやつり人形のようなもので、屋台の中で「獅子振り」が披露されます。

この三匹獅子は親子獅子だと言われています。

このような棒にくくりつけて振るタイプの獅子を「棒ささら」とも呼びます。

<弥勒(みろく)>

元町の弥勒は白、青、赤の神様で、住吉明神、春日明神、鹿嶋明神です。

みろくの演舞は、お祓いとお神楽をあげることや祝詞をあげるときの神事です。

また屋台の上で、三体が「町渡し」のときにも演じられます。 

「能楽」の最初に演じられる「翁」という演目があります。 

その原型が、父尉(釋尊)、翁(文殊)、三番(弥勒)をかたどったものといい、

やが て「翁式三番叟」の形式になっていったそうです。

六町目獅子と元町みろくは

昭和551126日に市指定無形民俗文化財

昭和551212日には、「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として国の選択を受けています。




 


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⑥風流物


明治末期までは江戸時代の姿のままの獅子とみろく、背の高い山車、回り舞台式の屋台とありました。

当時の主流は山車で飾り物(人形・練り物・張りぼて)を各町競っていましたが、

電線が張られるとそれに進行を妨げられて現在のような屋台だけになりました。

今でも屋台を山車と呼ぶことが多いのはそのためだそうです。

風流物の屋台は、現在16台残され、三味線、太鼓、笛、鉦が乗り、お囃子が演奏されます。

御祭禮3日目、4日目に各町内等を巡行(町渡し)するときには、

門付けと言って踊りを披露することがあります。

お囃子の曲には<おっしゃい><とっぴき><四町目><鎌倉>などがあり、

これらの演奏は、もちろんすべて生演奏です。

町内ごとに、地元はもとより各地から芸妓さんを乗せましたが、

現在では芸妓そのものが
少なくなっているそうです。

各風流物の町渡しは午後10時まで続けられます。

屋台には芸者衆が乗り、

「門付け」(町の有士などから依頼されて芸を披露すること)や

「町渡し」(屋台,獅子,みろくの風流物が御神幸供奉以外の時間に、

思い思いに他町内の祭典事務所と若衆事務所を訪問すること)をします。

昼間は優雅に舞い、夜は激しく華やかに囃しながら御神輿のお供をします。

お囃子に三味線が入る点や、屋台が御神輿よりも目立ってしまう点などは、かなり珍しいかもしれません。

現在は芸者衆も減ったため、民謡保存会などが乗っている町内が多く、

田中町も「粋鼓連」の方々に乗っていただいています。

「門付け」や「町渡し」には端唄のほか「磯節」「網のし」などの民謡で舞を披露します。

また御神輿を海中で揉む「お浜入り」も見どころの一つです。

天満宮の祭礼(天満宮祭礼保存会)として昭和551126日に市指定無形民俗文化財にもなっています。


 風流物




  


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⑦囃子

祭り囃子は、十数種類も存在しますが、主に用いる曲目は67曲程度です。

田中町の場合は祭典事務所で「さんさ時雨」や「ひなぶり三番叟」などお祝いの舞を舞い、「四町目」で出発します。

他町内へ入れば、主に「おっしゃい」「とっぴき」などの囃子を用います。

3日目に明神町詰所からの供奉行列の出発時は、全町内の屋台は一斉に「四町目」で囃し、

天満宮前を通過する頃にはにぎやかに「おっしゃい」になり、雰囲気ががらりと変わります

4日目に和田町詰所からの還御行列の出発時は、「鎌倉」で囃し、

七町目本通りへ出ると「おっしゃい」に転じ最高潮になります。

田中町へ着くと「おっしゃい」から「本町二丁目」で曳納めとなります。

お開き直前の舞いは、「千秋楽」で終わります

お囃子・囃し言葉・唄・鳴り物・舞いは、全て生演奏です。

特に「おっしゃい」はアドリブを聞かせいろいろな「囃し言葉」でも楽しめます。

大体即興ですので、その場で消えてしまいますが、

「十日も二十日もおっしゃいなぁ~」や「裸で裸足でおっしゃいな」

「朝から晩までおっしゃいな」「おっしゃいバケツが十三銭、安いと思ったら底抜けだ」

などは戦前から愛用されています。

屋台の舞台上は必ず女性で、格子戸で仕切られた楽屋内は男性(横笛、鉦)で、 

大太鼓1名、小太鼓3名、三味線3名、唄2名、横笛1名、鉦(かね)1名です。

横笛と鉦の人は、時どき交替します。

*田中町では平成21年に町内公募した囃子言葉

○「天満宮の御祭禮 神輿は大漁 お浜入り」

○「湊のまつりは日本一 黄門さまのおすみつき」

○「那珂の川風 潮薫る あづまが丘の 反射炉に」

○「あづまが 丘 は 湊 一」

なども使われています。

主に使われる囃子


「四町目」


初日朝引き出し、町内を一回りするとき用います。


「おっしゃい」


即興の囃子しことばや掛け声が入って、

お囃子さんや若衆も威勢がつくのでずば抜けて愛用されています

また、アドリブを聞かせいろいろな「囃し言葉」でも楽しめます


「とっぴき」


大急ぎの時や、坂を一気に登る時使い、男囃子連のもので、

三味線は入りません。


「早渡り」


時間に追われたときや、裏通りなど先を急ぐ場合用います。


「鎌倉」


和田町詰所からの還御行列の出発時に用います。


「本町二丁目」


屋台が町内へ戻ってから、引き納めるまで用います。

「本町二丁目」には唄が入ります。

田中町のお囃子さんは水戸市の民謡保存会の方が中心の「 (すい)鼓連(これん)の皆様で、

笛、鉦はひたちなか市指定無形民俗文化財「 天満宮(てんまんぐう)祭礼(さいれい)屋台囃子(やたいはやし) 」保持団体「 天満宮(てんまんぐう)祭礼(さいれい)屋台囃子(やたいはやし)振興会(しんこうかい) 」構成員でもある那珂湊(なかみなと)屋台(やたい)囃子(はやし)保存会(ほぞんかい) の方に乗っていただいています。

あと一つの構成員は、「 那珂湊(なかみなと)伝承(でんしょう)芸能(げいのう)保存会(ほぞんかい) 」です。

他にも 「 㐂和屋(きわのや) 社中(しゃちゅう) 」・「 寿々本(すずもと) 社中(しゃちゅう) 」・「 (いそ)(ぶし)道場(どうじょう) 」・「 (いそ)(ぶし)保存会(ほぞんかい) 」・「 (ちく)文会(ぶんかい) 」などがあります。

天満宮祭礼屋台囃子(所有・天満宮祭礼屋台囃子振興会)は

平成61020日に市指定無形民俗文化財になっています。

那珂湊屋台の囃子保存会は、昭和53527日設立しました。

      



 「おっしゃい」

   

 「とっぴき」

   


 「ひなぶり三番叟」


 

 「鎌倉」

 
 

 「本町二町目」


 

 「千秋楽」


 

「さんさ時雨」四町目」「町渡し」「とっぴき」

「町渡し」



   


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 ⑧いわれ

那珂湊天満宮の由来は、今から700年ほど前、鎌倉時代に遡るといいます。

和田町の漁師・金兵衛が、夜の浜辺で観音像を発見して、近くの磯岩に安置しました。

村人がこの像に梅鉢の紋があるのに気付き祠を作ってお祭りしました。

海上から菅原道真公の神霊が、この地の海岸に降り立ったということから、

創建されていた北野山満福寺泉蔵院が、庶民の信仰を集めました。

そのため水戸藩主 徳川光圀公が仏教色を取り払い、天満宮の社殿建て替え時に、

東條常言に命じて菅原道真公の御神体を新造して今の天満宮に奉納しました。

天神様が御祭神なので、社殿・御神輿・風流物(獅子・みろく・屋台)などのお印は、

天神様の梅鉢の御紋で統一されています。

しかし提灯などのお印は、梅鉢と徳川家の葵の御紋の物とが、ほぼ同格に使われており、

徳川家・東照宮のカラーの強い特殊な天神祭りであるかもしれません。

江戸時代初期、元禄8(1695)に、水戸藩二代藩主・徳川光圀公は、

祖父・徳川家康公の江戸城入城記念日であった八月一日(八朔)を天満宮御祭禮の期間と定め、格

式・形式は、徳川家康公を祀る東照宮にならったものとしました。



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